本日の北京(2020年ブログ版)

軽く、リアルに北京を語るライターブログ

「エリート教育を大衆化したのが中国」エリート教育とは高圧的学習?なの

今日は、羅振宇のロジカルシンキングという700万人が聴くオーディブル講座の教育論。

これは中田敦彦のユーチューブ大学のような感じで、聞くと分かってために成るコンテンツで専用アプリ(「達到」ダーダオ)で提供している。今では、誰もが知るメジャーなコンテンツアプリだ。

 

そこの無料講座の844期、「エリート教育とは何か?」(11分)を聞いた。内容はおおよそこんな感じ。

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中国式教育というと丸暗記で負担が大きく、子供の愉しみや想像力を圧迫すると皆思っている。その反省の上で「じゃあ、『素質教育』をやろう」というのが一般的な論調だ、と指摘。「しか~し、素質教育は中国教育の問題解決にはならない」という。

なぜなら、「教育は一種の選別システムであるなら、素質教育(具体的には音楽や絵画、体育や天文など)をいくら足しても競争は同じに存在するから」。

 

そもそも、アメリカで素質教育をやる隠れた目的は(ラテン語や音楽などの教育をうけさせられる)家庭環境の良い子供を選別するためだ。!!(そうか?!)

 

また、中国の教育では学生への負担が多すぎる。だから(中国語で「快楽教育」→)「楽しめる教育」を導入すべきだという意見があるが、これも間違いだ。

 

楽しめる教育は良いことではない、とバッサリ言い切る。米国のトップハイスクールのホイットニー高校のことを記録した「米国トップハイスクールはどんな風?」(ショームス?=休姆ス)著によると、そこで行われているのは睡眠時間4時間、カフェラテ4杯、GPA4.0の過酷なスパルタ教育だという。

中国のテスト工場と揶揄される「衡水中学」よりひどいじゃないか!

 

つまり、アメリカの優秀な学校では楽しめる教育なんてやっていない。やっているのは大衆教育のコストダウンのためにそれを導入した(レベルの低い)公立校だけ。アメリカの公立校の先生は低収入者で、ストライキをしてやっと5,6%アップを実現するような人たち。そんな待遇の彼らはやる気もないし、3時には帰宅したい。だからこそ、「楽しめる教育」なんて言うものをいいだしただけさ、と断定。

 

アメリカも中国も中産階級家庭の選択は同じ、高圧式の強度の高い学習だ。熾烈な競争で勝つためには苦労するのは当たり前、これが長い歴史が証明してきた素朴な道理だろう、と啖呵を切る。

 

中国が世界の工場に成れたのは、日米欧州インドが育成した規模のエンジニアを生み出したから。それができたのは「エリート教育の大衆化」ゆえだ、と。

 

中国の教育では全て同じ教材を使い、大学入試基準も統一されて非常に公平である。世界一だ。エリート教育とは高い期待と高い強度の学習のこと。それを全国民に対してやっているじゃないか。

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と言い切る。イヤハヤ、いくら大衆受けするように、分かりやすくかみ砕いているとはいえ、ちょっと乱暴すぎやしやせんか。

 

まず、「教育は人材選別システム」と言い切る!が、そうか?これは実に中国の教育の本質を突いているが間違った前提じゃないかな。人を選ぶためより、育てるためじゃないか?

 

一方、(元々エリートを選別するためにデザインされた)「エリート教育」を今は(就学率が上がったため、期せずして)全員にやっている、という指摘には同感。これが公平と言えば公平だ。しかし、そこに落とし穴もある。

 

昔は農村で頭が良いと思われた一部の子供だけがやってきた過酷な学習を、優秀な先生もいない厳しい状況下で全員にやらせようとしているのが今の教育。その結果、非科学的な強引な「100回やればバカでも覚える」式の教育がなされているのが現実。これはやはり、問題じゃないか?(この問題指摘は大昔にされている通りだが、彼の指摘はそれへの回答にはなっていない)

 

さらに、アメリカの先生は低収入者だからな、なんていう指摘は下品だし不当だ。じゃあ、中国の先生はどうなん?ものすごく社会的・経済的地位が低いのは同じ。自国の状況を棚に上げて、上から目線で分かったような解釈をするのは、誤解を生む。第一、これも、同じく、だからと言って中国の教育を肯定する理由にはならない。

 

ということで、中国教育の本質解明には有意義だが、論の持って行き方や位置付けが気に入らない。こうやって、米国もだめ、やっぱり中国一番というところに落とし込んでしまったとしたら、中国の今の人にとって何の役にも立たない、インテリとして百害あって一利なし、である。

 

とどのつまり、「アメリカだって我々と似たようなもん、やっぱり高圧的な勉強しかない!」と教育分野で本当に言えるのだろうか?

 

これ、本日の北京のとある教育論なり