本日の北京(2020年ブログ版)

軽く、リアルに北京を語るライターブログ

3つの愛情:好き、情が湧く、愛している

引き続き恋愛研究。前回も書いた復旦大学の梁永安副教授の分析。

お題は「なぜ、中国の若者たちは互いに愛し合えなくなってしまったのか?」

 

社会が急速に変化しすぎる社会に生きて進学や就職など動き続けているため、ゆっくりと情を育むのが難しくなっている。さらに、年々値上がりする家の不動産や仕事のプレッシャーから、男女の感情に関しても功利的になりがち。同時に期待値ばかりが膨らむ一方で現実は厳しいので、それを相手に求めてしまって功利的になり勝ち。

 

相手には予測可能性や安定性を求めるが、自分により良い選択が降ってきたら、自分はまず安定しなくなる。つまり、伝統と現代の矛盾に生きている。

 

更に、今の若い人たちは自分が相手に何かをしてあげて幸せと感じたり、人に合わせる能力が低い。相手に対して、「あなたは私のリソースになって、私の願いに合わせて、私を幸せにしてほしい」と一方的に願うケースが多い。

 

銭鐘書は中国の古代に愛はなく、(長く居る事から生じ、相手を思いやる気持ちの)恩情しかなかったといった。我々の社会は社会性のある情感を育んだことが無い。知らない人同士が社会で交流し、知らない男女が相愛するということを知らないできた。若い人たちは内面が成長せずに、小学生の心持ちのまま大人のことをやっている。我々の愛情文化の発展の時間は短すぎる。相愛のレベルに達するには精神世界を持った二人でなくてはならないし、それには自分の価値観や思想を持っている無いといけない。

 

これは我々の道徳観とも関係している。「好き」を「愛」と勘違いする。だが、実はまだ入り口に過ぎない。愛するための基盤としてはぜい弱。その途中でもし、片方が他の人と接して試してみたい、果たしてどちらが愛なのかを比較したいと思っても、それは我々の道徳では許されない。

 

なぜ、人にやってあげる事に幸せを見いだせないかというと、そもそもその人が幸福感に満たされた世界に生きていないから。人を包み込む幸福感はまた別の幸福感を生み、プラスの循環ができるが、今の社会で生きている人の多くがこうした循環を欠いている。

 

また、一人っ子政策で、自分の生活は両親が全て上げ膳下げ膳でやってくれて、全てが自分中心に回っていたために、自分の生命に責任を持ち、他人と一緒に何かを成し遂げる積極的な力に欠けている。

 

若い人は(精神性を共有するレベルの愛に達するのは難しいが)まずは、人に関心を寄せて、人の立場に立って、人を思いやる気持ちを努力して学ぶべきだろう。